⚠️メンテナンス中⚠️狭いベランダは我が森ぞ

言いたい放題な生息記録

タグ:自殺

<劣悪な環境の中、遺体の身元特定>

520人の犠牲者の遺体は、藤岡市民体育館に運び込まれました。
樹木に突き刺さったままだった遺体、機体の残骸に切断された遺体、落下の衝撃で地中深くに埋もれた遺体、圧力によって2名の体がめり込むように合体したような遺体…墜落の摩擦で完全に消失した部位や、挫砕されて完全に識別困難な部位もありました。
遺体の大半が激しく損傷している上、猛暑という悪条件も加わって腐敗の進行も早かったため、身元の特定は困難の連続でした。
当時はDNA鑑定技術もまだ十分に確立されておらず、警察官、警察医、医師、法医学者、法歯学者、看護師など500名以上が全国から駆けつけ、劣悪な環境の中で判別作業や遺体の縫合・清拭などを進めました。
また、遺体の確認のために全国より集まった遺族の多くが、疲労と悲しみで身体不調を訴えました。そのため、検死場所や遺体安置所に遺族のための医師も配置しました。

22体の検視が同時に行えるようにビニールシートが敷かれた床、部外者による遺体の写真撮影を防ぐために締め切られて黒いカーテンで遮断された窓、床面を照明するための10基の強力なスポットライト。冷房設備がないため、館内の温度と湿度は上昇し、40℃を越す高温となっていました。
検死3日目になって、日本航空より飛行機内冷房用の冷房機が搬入されると多少室温は下がりましたが、外気温の上昇、腐敗臭や線香の煙などであまり効果は感じられず。
また、遺体安置所、警察医、看護師の控所は区切られてはいるものの、全て同一室内であり休養を取る場所が無く、隣接したサッカー場の芝の上で休むしかありませんでした。遠方より出動した医師の宿泊設備も、全くありませんでした。

最終的な身元確認作業の終了には訳4ヶ月間かかりましたが、2名の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は判明していません。


<事故後にも死者が続出>

1978年のしりもち事故を起こしたパイロットと、それを修理した整備総担当者が自殺しています。
123便の尾翼付近にオレンジ色のミサイルが突き刺さっていたことを証言をし、真相を追っていた人物も、2009年8月8日の月例会で話している最中、ペットボトル『おーい!お茶500ml』を飲んだ30秒~1分後に突然倒れ、翌日死去しています。



また、事故現場にオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人が、事故から何年も経った2010年5月16日に江戸東京博物館で目撃証言を依頼されましたが、講演の2週間前に車の後輪がバースト。
死亡事故には至らなかったものの、損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない熱戦銃によるものと判明しました。

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放射能症にかかりながら何度も入山して証拠品を収集していた人物も、遅効性の毒ガスを撒かれる、車のブレーキに細工をされる、自転車を不審車に体当たりされるなど、何度も命の危機を感じています。

事件以降、自衛隊員の自殺者も増加しています。
自衛隊員の自殺は、最初に不審な自殺者が出たとされたのが1986年の7月。二人の航空自衛隊パイロットでした。
次に同年9月12日と14日、航空自衛隊員が二人自殺し、以降、自殺数が増加しています。
自殺数は1986年には年間90人以上。1981年から73パーセントも増加しました。しかし、これだけの自殺者が出ても報道すらされていません。
実際には発表された人数以上が亡くなっている可能性が大きく、本当に自殺かどうかも疑わしい件が何件もあります。


<二枚の写真>

ここで、12日に死亡した自衛隊員が友人に預けていた二枚の写真について書いておかねばなりません。

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一枚は『7月に自殺した同僚二人の首つり写真』です。二人は自殺決行直後に発見され、搬送された病院内にて死亡したと発表されていますが、とてもおかしな話です。
まだ生きていたなら、首を吊っている状態の写真を撮る余裕なんてあるでしょうか?
また、踏み台も無い場所で二人並んで首を吊っているという不審な点もあるのに、司法解剖も検視解剖もされていません。
自殺というのも、病院内で死亡というのも、嘘だと思います。

もう一枚の写真は、暗い倉庫内に置かれた『飛行機の尾翼』が写っている写真です。
この尾翼には鶴のマークがあり、大きな破壊痕とオレンジ色のミサイルの一部が付着しています。
どう見ても、『見つかっていないことになっているはずの123便の尾翼』です。

この2枚の写真を、何の説明も無しに友人に預けた自衛官は、いったいどんな思いだったのでしょう。
自殺をする予定だった、もしくは、自分も殺されると察していたのでしょうか。


<ボイスレコーダー>

重要な証拠となるボイスレコーダーは、事故から約10年後まで一切公開されませんでした。
約10年後に『公開する予定ではなかった・遺族などに対する公開を予定していたもの』が流出という形で公開され、それも一部であり、何か所も編集され、大事な部分はカットされていました。
また、日本航空経営陣から藤田日出男(独自の事故調査をした人物であり、当時は日本航空のパイロット)に提供されたテープは、機長の遺族のみに聞かせるように強く指示されていました。

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事故から15年後の1999年11月に、運輸省は非公開状態を維持したボイスレコーダーの音声録音資料の他、事故記録の資料など全てを廃棄処分しています。
遺族が保存を強く願い、再調査を求めていたのにもかかわらず、データの保存期間が過ぎたという理由だけで、1.6トンもの事故調査関連資料全てを廃棄処分したのです。
2001年から施行される情報公開法を恐れてのことでしょう。
運輸省は「処分していない」と嘘をついていましたが、後に、廃棄処分にしていたことを正式に認めました。
「原資料はマイクロフィルム化して現在も保存してあり問題はない。ただし、今後も調査資料は公開の対象とはしない」そうです。

しかし、ボイスレコーダーのコピーを録っていた人物がいました。その人物は2000年7月に、コピーを放送局に公開しました。 


<異常発生後の写真>

異常発生後の機内後部を撮影していた写真は、警察から遺族に返還されて新聞でも報道されましたが、何故か事故調はその存在を認めず、事故調査報告書でも一切触れませんでした。

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この写真は、酸素マスクが落下していることから、最初の異常後、調査書で言うところの圧力隔壁の断裂後に撮られたものと認められます。
機内が非常に落ち着いている様子が写っています。『機体後部の圧力隔壁の断裂により機体の内外で圧力差が発生、機内に風速200m/hの気流が生じ、その猛烈な気流が隔壁を突き抜け、垂直尾翼を破壊した』はずなのにです。


<経営は“将来的には残骸を破棄する考え”を表明>

機長組合は123便事故に関して、社内事故調査報告書の開示と調査の再開 、全ての残骸の保存 、残骸やCVR・DFDRの組合への開示を要求しました。
そして、返ってきたのは『事故機の残骸を将来的には破棄する考えである』との回答でした。

123便事故の原因究明に関しては、とても乗員の理解・納得が得られるような説明がなされていません。
また、この事故に対する社会的な関心は高く、事故調の報告書に対する疑問や再調査を求める声が数多く寄せられています。
こうした中で、事故原因究明の道を自ら葬り去るような『残骸破棄』の意志を回答文に新たに盛り込むとは…

以下、2004年春闘回答

JA8119号機事故については、2002年8月に社内事故調査報告書をまとめ、航空・鉄道事故調査委員会の報告書の内容を肯定しうるものとの結論を得たため、再度調査を要請する考えはありません。
なお、社内事故調査報告書の概要については、すでにご説明しておりますが、貴組合からの質問にはお答えする考えであります。
また、保存されている機体破片やCVR等のローデータについて、貴組合に公開する考えはありません。
なお、圧力隔壁・CVR・DFDRについては、今後とも教育目的で保存し、その他の機体破片については、将来的には破棄する考えであります。


<急減圧が否定されると全てが崩壊する隔壁破壊説>

123便事故について、運輸省航空事故調査委員会(当時)は「後部圧力隔壁が飛行中に破壊し、客室内の空気が大量に瞬時に垂直尾翼内に流れ込み垂直尾翼を破壊した」と事故原因を推定し、しかも垂直尾翼を破壊するほどの空気流によって、機内では30万ft/minにも及ぶ急減圧が発生したと推定しています。
そして、日本航空もこの事故調の結論を是認しています。

機長組合は、123便事故調査に関してBDZ(総合安全推進室)との交渉を進めますが、この中で『急減圧』の存在が否定されると事故調査報告書の推定が崩壊することを、会社も認めています。

●急減圧発生時に真っ先に乗員がしなければならない『酸素マスクの装着』を3人の乗員いずれもが行っていない
●生存者が「ツーンと耳が詰まった程度」の減圧でしかなかったと証言している
●異変が起きた後にも「突風により物が散乱した様子が一切見られない機内の状況」を撮影した写真

このように、事故調が推定するような急減圧の存在”を否定する状況証拠が数多く見られます。
(組合注:約10万ft/minの急減圧であったタイ国際航空機事故で、多くの乗客は“難聴”を訴えている。また航空医学の通説では、事故調の推定するような急減圧では鼓膜が破れてしまう。)

この大きな矛盾に関して、BDZは「123便では、客室内で急減圧特有の現象が存在したとの証拠は無い」と認めています。
しかしその一方で、「これは空気の流れは主として天井裏部分を通ったためと考えられる」との理屈で説明しようとしましたが、運航技術部長から「空気の流れは隙間があればどこへでも流れる。前回の(BDZによる)説明のように『多く(の空気)が天井裏を流れた』とは思わない」と技術的にこれが否定されるなど、この最大の矛盾に対して説明不能に陥っています。
これは、『急減圧による隔壁破壊説』に事故原因を結論付けることには無理があり、何らかの他の要因によって垂直尾翼が破壊されたものと考えることの方が極めて合理的といえます。


<以下、急減圧について転載>
 
まず、疑われているのが、報告書内で起こったと推定されている「急減圧」の存在だ。
航空機には、地上と同じ気圧を保つように圧力が加えられる。これを「与圧」と呼ぶ。そして、機内と外部との圧力を分ける壁が「圧力隔壁」だ。
それが壊れた部分から客室内の空気が流出し、機体尾部と垂直尾翼、さらに4つの油圧パイプが壊れて操縦機能が喪失。また、空気の流出により、機内には「急減圧」が発生したと報告書では推定されている。
ところが、この部分が生存者の証言と矛盾しているのだ。

証言によれば、急減圧発生時に起こるといわれる現象が、実際には起きなかったという。
たとえば、急減圧後の機内は、気温がマイナス40度まで下がり、空気が膨張する。それが風になって機外に流れ出す。このとき、大きな風の音がする。
ところが生存者は、異常発生後の機内温度の低下や、強風が吹いたことも否定した。
そればかりか、ボイスレコーダーには、機長らの急減圧に関するやり取りが記録されていない。

これらの事実を受け、今日では、遺族や航空関係者、ジャーナリストの間には「急減圧はなかった」という見方が強まっている。
日航内部にも、「急減圧はなかった」という説を支持する団体もある。
独自に真実の事故原因を追究すべく活動している日航乗員組合連絡協議会が、急減圧説を否定するリポートを発表している。

ならば、事故調は再調査をすればいいのだが、そうした動きは皆無だ。
遺族たちは再三、事故原因の再調査を求めているのだが、それが叶う様子はない。

いや、そればかりではない。
なんと99年11月には、この事故に関する全資料が廃棄処分されてしまったのだ。
まるで何か都合の悪いことを隠すかのように。


<秘密特定保護法>

日本政府は、2015年にこの事件に関する外交文書が一般公開されるのに合わせて、この事故の真相が明らかにならないように、被告本人や遺族ら関係者(田布施村閨閥)は秘密特定保護法を制定しました。

JAL123便墜落事故とは、1985年8月12日18時12分に日航123便が御巣鷹の尾根に激突して炎上し、4名の重傷生存者と520名の死亡者を出した事故である。
事故原因は、1978年のしりもち着陸事故後の、ボーイング社による修理が不適切だったためとされている。
だが、数多くの不審な点や目撃情報、生存者の証言などから、多くの人々が納得できないままであり、真相は深い闇の中だ。

私がこれから書くことを100パーセント信じろとは言わない。
だが、発表された事故内容やテレビなどで感動の美談化された特集を、鵜呑みにせず、疑ってみてほしい。

これだけは言っておきたい。
こうして事故を掘り返すような記事を書くのは、決していたずらな気持ちではない。
以前運営していたサイトでこの事故について書いたところ「犠牲者を静かに眠らせてあげたらどうですか?」というコメントが来たが、私には面白半分で墓場を荒らすかのような気持ちは無い。

あと数日で、あの事故からちょうど30年だ。心より犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたします。



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<当日の背景>

1985年8月12日、海では相模湾・伊豆沖に『まつゆき(当時の最新鋭護衛艦)』などの艦船・潜水艦が出動、空では茨城県百里基地所属の航空自衛隊戦闘機の他、航空自衛隊や在日米軍の電子戦機が待機、更に上空では米軍の軍事衛星が演習を監視という形で、日米合同軍事演習が行われていました。
また、御巣鷹山はゲリラ訓練場となっていたと言われていますが、それはありえないという意見もあります。


<123便に何が起こったのか>

午後6時12分、JAL123便が羽田空港を離陸。その後、午後6時18分過ぎに、右前方から何かが飛行機に近づいてきました。
この『何か』は、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた乗客がカメラに収めています。

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そして、123便に『何か』が衝突。その際、機長は「まずい、何かわかったぞ。スコーク77入れるぞ」と、副操縦士は「スコーク77。オレンジエア」と言っています。
つまり“オレンジ色の航空機と衝突した”ことを自衛隊機に報告していることが明らかなのです。 
 
衝突した『何か』とは、実証実験中の誘導ミサイル、無人標的機のファイア・ビー。そして、それを追尾していたチャカIIではないかと言われていますが、アメリカ空軍の練習機によるミサイル誤射だとも言われています。
民間機を標的にした訓練はどこの軍隊も当り前のように行っていることで、相模湾(米軍の訓練海域)に進入してきた民間機を米軍機が代理標的に見立てることは不自然ではありません。
好評されていませんが、過去には、米軍機がスペインで民間機を撃墜してしまった事実もあります。

また、1997年7月30日には、全日本空輸の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落しています。
この時、自衛隊機の乗員は脱出に成功、旅客機は空中分解し、162名全員が犠牲となりました。
事故原因は、大型旅客機を仮想敵機にして接近しすぎてしまったこと。
1952年4月9日に日航の『もく星号』が墜落した事故も、原因は同じでした。

なんにせよ、飛行中に123便が突然壊れ、わけがわからないまま御巣鷹の尾根に突っ込んだとされている発表は大嘘です。

衝突音の7秒後、123便はスコーク77の識別コードを送信しました。
スコーク77は緊急事態の宣言であり、民間機が何かに要撃の対象とされた場合の緊急コールで、発信した民間航空機は自衛隊機の指示・誘導に従うよう定められています。

その後、自衛隊のF-4EJ戦闘機が2機、F-15J戦闘機が1機、123便を御巣鷹山へ導きました。
横田基地への着陸を阻止された123便は、素晴らしいフライト技術とチームワークで飛行を続け、山麓に胴体着陸態勢に入りました。
ところが、なぜかミサイルが撃ち込まれ、午後6時56分過ぎに墜落してしまいました。ミサイルはエンジンと機体本体に一発ずつ打ち込まれています。

御巣鷹の尾根に裏返しの状態で激突した123便。胴体後部は折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行きました。
後に生存者が発見されたのはこの胴体後部からです。

これは墜落の7分前(18時49分頃)に撮影された写真です。

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<撃ち落とされたのは123便だけではない>

123便を撃ち落としたのは、待ち構えていた自衛隊地上部隊のレッドアイだと考えられています。
地上部隊は123便の他、誘導した自衛隊機、123便を追っていた米軍機F-19(F-117)、諜報活動中であったNSA(米国家安全保障局)の偵察機、ロシア軍のスホーイも撃ち落しました。 
ロシア軍のスホーイに関しては、まったくの偶然で巻き込まれたとも言われています。
ツナ缶の工場にロシアから輸入したツナを運び込む際、護衛のために上空から船に追尾することが慣例であり、この日も船の入港日であったとか。
ここらへんは、どこの国の何が何を撃ったのか撃たなかったのか、ごちゃごちゃしすぎていてさっぱりわかりません…

ピカッと雷光のような閃光、黒いキノコ雲が目撃されており、核兵器使用の痕跡もあります。
御巣鷹の尾根にはF-19(F-117)がレントゲンの原理で焼き付いており、自衛隊に落とされた証拠となるF-19の残骸も見つかっています。
墜落前の123便の福田航空機関士も「19だ!」と叫んでいます。

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また、123便墜落事故後に、123便(ボーイング社:B747-SR)ではなく、ロッキード社(F-19)の事故調査員が検証しています。
123便のことより、F-19の消失事故として調査を行う形に、疑問を持たずにはいられません。


<帰還命令と口止め>

123便の墜落は、すぐに横田基地米軍輸送機C-130が察知しました。そして、午後7時30分に墜落現場を特定、その20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせています。
現場の上空には、座間基地所属のヘリUH-1も到着。ロープを降ろして救助を始めようしました。
ところが、陸軍ヘリUH-1と上空で待機していたC-130に、帰還命令が発せられたのです。
「引き返せ。そして口外するな」

その後、なぜか自衛隊は墜落場所の誤報を意図的に繰り返します。
このため、航空自衛隊救難隊によって123便の機体が発見されたのは、翌朝の午前5時10分。
その後、陸上自衛隊偵察ヘリによる機体確認、長野県警ヘリによる墜落現場の確認、各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認されました。

午前8時半、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、陸上自衛隊第一空挺団の隊員も現場に降下して救難活動を開始しました。
陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着して、やっと本格的な救難活動が開始されました。
到着が遅くなったのは『123便が輸送していた医療用放射性同位体と、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒』が理由だと発表されていますが…
 

<全員死亡のシナリオ>

これだけは忘れてはいけません。
縦割り組織警察の常識を無視して『全員死亡による救助打ち切り命令』で動けない群馬県警管轄地域へ越境進入したのは、長野県警レスキュー隊です。
現場で早々と『全員即死宣言』をした自衛隊幹部に「まだ生存者がいるぞ!」と怒鳴って救助活動を促した消防団員や報道関係者の人達。彼らがいなければ、誰一人助かっていなかったことでしょう。

現場にいた消防団員は「最初は医師・看護婦は現地に送り込まれていなかった。生存者が発見されてから急に慌てた。生存者に対する準備ができていなかったような気がする」と話しています。
また、11時に生存者発見、12時に仮設ヘリポートへ移動、ヘリポートで1時間30分以上待たされ、14時15分頃にやっと病院へ搬入という不手際さ。
一刻を争う状態の生存者を現場に2時間近く放置し、病院搬入まで3時間以上も費やしているとは何事でしょうか。
救命どころか、生き延びてもらっては困るかのような対応です。


<横田基地米軍輸送機C-130の元パイロットによる証言>



以下は、C-130に乗っていた男性の証言です。
彼はその日、偶然、沖縄の那覇からC-130で飛んでいました。そして、日本側より14時間も前に墜落現場を発見した事実を公表しています。
 
『あの飛行機事故のことは10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。 
JAL123便が管制塔に緊急を告げた時、たまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに発見出来た。墜落の2時間後にはアメリカ海軍の救助ヘリが現場に着いた。あの時、救助にストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。
現場を確認後、グリフィン隊長は残骸の上空600メートルでそのまま旋回飛行を続けた。私は横田基地からの位置を測り、20分後には正確な位置を割り出して横田基地に知らせた。 
やがて横田基地から連絡が入り、60キロ離れた厚木基地から海軍の救助隊が来ると知らされた。あと1時間で着くという。

司令部の命令はこうだった。「日本の救助隊が向かっている。すぐ基地に戻るように」
しかし私は次のように伝えた。「海軍は救助に入りたいと言っています」
すると司令部は次のように言った。「繰り返す。すぐ基地に戻るように。海軍も同じだ」
もはや私は「わかりました。帰還します」と答えるしかなかった。降りかけていたヘリの乗員たちは、再びロープを登っていった。その時、我々の900メートル上空に、日本の飛行機が旋回しているのを認めた。 
午後9時20分だった。これが現場に来た最初の日本の飛行機である。

横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団の副司令官、ジョエル・シルズである。グリフィン隊長が報告を終えると、シルズは「よくやった。でもこのことは 一切マスコミに話してはいけない」と言った。理由はまったく説明されなかった。 
しかし、翌日のニュースは、もっと衝撃的だった。日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは墜落の14時間後だと言っているではないか。
私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。私には自信があった。伝えた位置は正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、間違いない。
我々はあの時、現場の上空を飛んでいた日本の救援隊に後を任せた。それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか? 一体、朝まで何をしていたのか?不思議でならなかった。

事故から2週間たって、私はタイムとニューズウィークで、生存者が4人いたことを初めて知った。しかし残りの記事は、間違いだらけだった。
生存者の一人の証言が私をぞっとさせた。彼女は墜落後、数人の子供達の声を聞いたと言っていた。ヘリを見て手を振ったが、気づいてくれなかったと語っていたのだ』

こういった様々な証言さえ、真実かどうかはわかりません。
我々はいったい誰を、何を信じればよいのでしょう。 


<本当に一番早く現場に入ったのは>

一番早く現場に入ったのは長野県レスキュー隊とされていますが、本当は、国家機密を守るための自衛隊特殊部隊です。
13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に、既に100名程度の自衛隊特殊部隊員が来ています。

証言者によると、この頃4~50名の生存者がいました。しかし、特殊部隊は生存者の救出など一切行わず、人命救助よりも『何か』の回収を優先しました。大きな袋、丸いバッグに何かを集め、上空からヘリが袋を回収するという作業のみです。
特殊部隊は回収作業が終わっても人命救助は行わず、現場を去りました。その1時間後には生存者の声が全く聞こえなくなったそうです。
いったい何を回収していたのか、これは、証拠隠滅のために米軍機やミサイルの破片などを回収していたと考えられます。


<回収作業だけでなく>

特殊部隊は回収作業だけでなく、とても惨いことを行っていました。
彼らは、4~50名いたはずの生存者を、毒ガス(携帯用VXガス兵器)で殺し、火炎放射器で焼いたのです。

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当時、遺体の歯形で本人確認を行った歯科医師はこう述べています。
「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。二度焼きしたような状況だ」
 
彼らは生存者を残さないように、ヘリコプターで薬(おそらくフッ化ホウ素)まで撒く徹底ぶりです。
後に4名の生存者が発見されたのは、まさに奇跡であり、彼らのミスでもあります。

生存者についても疑惑があります。生存者は、落合さん、川上さん、吉崎さん親子の4人と発表されていますが、他にも4人目撃されているのです。8月13日の夕刊ではも『生存者8人』と発表されています。
落合さんらの他に、元気な7歳くらいの男児と女児、中学生くらいの少年、20代の男性がいたはずなのに、どういうわけか、その日以降情報が途絶しました。話題にも上りません。最初からいなかったかのような扱いです。

また、待機命令に反して人命救助を急いだ自衛隊員数名が射殺されています。
生存者を匿ったために、拘束されて送り返された者も多数いました。
精神状態がおかしくなる隊員も多かったそうです。
彼らは「口外すれば家族にも危害が及ぶことになる」とも仄めかされています。

米軍の救助活動を拒否し、多くの生存者を救助しないどころか無残にも殺害し、せっせと証拠隠滅を図った特殊部隊員達。彼らだけを責めてはいけません。もっと深部を見てください。
彼らに惨たらしい命令を下したのは誰か。自衛隊を動かしている存在といえば、政府です。



JAL123便墜落事故(2)へ続く

30日午前11時半頃、新横浜-小田原間を走行していた東海道新幹線下りの先頭車両で、71歳の男性がガソリンでの焼身自殺を決行しました。
男性は死亡し、巻き込まれた女性も一人亡くなってしまったそうです。


焼身自殺と聞いて真っ先に浮かぶのは、ボクサー型姿勢。焼死体特有の姿勢です。
体が焼けると、熱作用によって筋肉内の蛋白質が凝固し、筋肉が収縮します。そして、四肢の筋肉(拮抗筋)は伸筋よりも屈筋の方が強いため、肘などが曲がり、まるでボクサーの構えのようなポーズになるのです。

焼身自殺は、抗議の意で行う人が多いと言われています。この男性がどうかはわかりませんが。
絶望は首吊り、疲労は睡眠薬、などなど、自殺の方法には様々な傾向があるのだそうです。


巻き込まれて亡くなった女性はかわいそうですが、男性は誰かを道連れにする気は無かったと思います。
他の乗客に「危ないから逃げなさい」と言ったり、お金をあげようとしていますから。
なぜ最後の舞台に新幹線を選んだのかは、ニュースで取り上げてほしかったか、単純に新幹線が好きだったかじゃないでしょうか?

あ、ダメだ、今日の私冴えない。


ニュースでは、芸能人の誰々が足止めをくらったとか、誰々も乗っていたとか、すっかり数字取りたやのエンターテイメント色が強くなっています。
はっきり言ってどうでもいい。
そんな事より、これから焼身ブームが起こらないように、むしろ起こさないように、気を付けろ。
過去にも、ドアノブでの首吊りが流行ったり、硫化水素が流行ったり、電車への飛び込みが流行ったりしましたからね。

ブログネタ
「忘年会」何回ぐらい参加する? に参加中!
世間の忘年会もピークを迎える今日この頃。人を変え場所を変え、忘年会をハシゴし、十カ所も参加したという人もいますね。肝臓は大丈夫かい?
急性アルコール中毒にも気をつけていただきたい。生きたければの話ですが。
「まさか死ぬとは思わなかった」なんて、そこまで無知なら飲酒はやめるべきです。「いっき!いっき!」は「死ね!死ね!」と言ってるようなものですからね。
ちなみに、私はもう何年も不参加。昔、ヴォーカル教室の忘年会に参加して、酒も飲まずに蕎麦を食べたっきりです。

そもそも、私は通常の飲み会自体行きません。ガヤガヤした場所とアルコールのコラボは、酷く目眩がしてしまうのです。
酔っている人間も苦手ですし、自分が酔っている状態も大嫌い。あのふわふわした感覚、私には「気持ちいい、楽しい」だなんてどうしても思えません。
リタリンの副作用とパキシルの断薬症状と自殺未遂した時の感覚に近いよなあ。
一気に全身がむくみ、顔に赤い湿疹が出て、喉が焼けるのも困ります。
「女の子のほろ酔いがかわいい」と言う男性が多いけれど、ブツブツパンパンの顔でもそう思えるかい?

基本的には、超プライベートで体調が相当良い時しか、飲酒したくないです。悪酔いしたら何やらかすかわからないし。
Casi nunca bebo alcohol.
仕事絡みでも、ある程度心を許していないと飲めませんよ、キチ○イ水なんて。
いやあ、バーテンやらホステスやらやってた人間の発言とは思えないなあ。


私が好きでテンションあがる飲み物は、今の季節だと葛湯です。葛湯には柚子の皮を入れたり、紅茶の茶葉を入れたりしています。夏はドクダミ茶ね。
苦手な飲み物は、ポカリスエットやアクエリアスなどのスポーツドリンクです。体調が悪い時に「点滴と一緒だから!」と勧められるのですが、どうもあの味が好きになれなくて。
塩入りのジュースも苦手です。余計なもの入れやがって…と思ってしまいます。塩入りジュースは塩無しバージョンも同時に販売してくれるとありがたいなあ。


ところで、私は暑がりなので、真冬でも暖房は滅多に入れません。
汗が出にくく熱がこもってしまうので、頭がぼーっとします。食べ物を摂取すると手足がどんどん熱くなるので、食事中にだんだんイライラしてくることも。
しかし、寝ている間は羊水にまみれた子ヤギのように汗でビショビショになります。

冷え性の逆って何て言うんだろう?燃え性?

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