<劣悪な環境の中、遺体の身元特定>
520人の犠牲者の遺体は、藤岡市民体育館に運び込まれました。
樹木に突き刺さったままだった遺体、機体の残骸に切断された遺体、落下の衝撃で地中深くに埋もれた遺体、圧力によって2名の体がめり込むように合体したような遺体…墜落の摩擦で完全に消失した部位や、挫砕されて完全に識別困難な部位もありました。
遺体の大半が激しく損傷している上、猛暑という悪条件も加わって腐敗の進行も早かったため、身元の特定は困難の連続でした。
当時はDNA鑑定技術もまだ十分に確立されておらず、警察官、警察医、医師、法医学者、法歯学者、看護師など500名以上が全国から駆けつけ、劣悪な環境の中で判別作業や遺体の縫合・清拭などを進めました。
また、遺体の確認のために全国より集まった遺族の多くが、疲労と悲しみで身体不調を訴えました。そのため、検死場所や遺体安置所に遺族のための医師も配置しました。
22体の検視が同時に行えるようにビニールシートが敷かれた床、部外者による遺体の写真撮影を防ぐために締め切られて黒いカーテンで遮断された窓、床面を照明するための10基の強力なスポットライト。冷房設備がないため、館内の温度と湿度は上昇し、40℃を越す高温となっていました。
検死3日目になって、日本航空より飛行機内冷房用の冷房機が搬入されると多少室温は下がりましたが、外気温の上昇、腐敗臭や線香の煙などであまり効果は感じられず。
また、遺体安置所、警察医、看護師の控所は区切られてはいるものの、全て同一室内であり休養を取る場所が無く、隣接したサッカー場の芝の上で休むしかありませんでした。遠方より出動した医師の宿泊設備も、全くありませんでした。
最終的な身元確認作業の終了には訳4ヶ月間かかりましたが、2名の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は判明していません。
<事故後にも死者が続出>
1978年のしりもち事故を起こしたパイロットと、それを修理した整備総担当者が自殺しています。
123便の尾翼付近にオレンジ色のミサイルが突き刺さっていたことを証言をし、真相を追っていた人物も、2009年8月8日の月例会で話している最中、ペットボトル『おーい!お茶500ml』を飲んだ30秒~1分後に突然倒れ、翌日死去しています。
123便の尾翼付近にオレンジ色のミサイルが突き刺さっていたことを証言をし、真相を追っていた人物も、2009年8月8日の月例会で話している最中、ペットボトル『おーい!お茶500ml』を飲んだ30秒~1分後に突然倒れ、翌日死去しています。
また、事故現場にオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人が、事故から何年も経った2010年5月16日に江戸東京博物館で目撃証言を依頼されましたが、講演の2週間前に車の後輪がバースト。
死亡事故には至らなかったものの、損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない熱戦銃によるものと判明しました。
放射能症にかかりながら何度も入山して証拠品を収集していた人物も、遅効性の毒ガスを撒かれる、車のブレーキに細工をされる、自転車を不審車に体当たりされるなど、何度も命の危機を感じています。
事件以降、自衛隊員の自殺者も増加しています。
自衛隊員の自殺は、最初に不審な自殺者が出たとされたのが1986年の7月。二人の航空自衛隊パイロットでした。
次に同年9月12日と14日、航空自衛隊員が二人自殺し、以降、自殺数が増加しています。
自殺数は1986年には年間90人以上。1981年から73パーセントも増加しました。しかし、これだけの自殺者が出ても報道すらされていません。
実際には発表された人数以上が亡くなっている可能性が大きく、本当に自殺かどうかも疑わしい件が何件もあります。
<二枚の写真>
ここで、12日に死亡した自衛隊員が友人に預けていた二枚の写真について書いておかねばなりません。
一枚は『7月に自殺した同僚二人の首つり写真』です。二人は自殺決行直後に発見され、搬送された病院内にて死亡したと発表されていますが、とてもおかしな話です。
まだ生きていたなら、首を吊っている状態の写真を撮る余裕なんてあるでしょうか?
また、踏み台も無い場所で二人並んで首を吊っているという不審な点もあるのに、司法解剖も検視解剖もされていません。
自殺というのも、病院内で死亡というのも、嘘だと思います。
もう一枚の写真は、暗い倉庫内に置かれた『飛行機の尾翼』が写っている写真です。
この尾翼には鶴のマークがあり、大きな破壊痕とオレンジ色のミサイルの一部が付着しています。
どう見ても、『見つかっていないことになっているはずの123便の尾翼』です。
この2枚の写真を、何の説明も無しに友人に預けた自衛官は、いったいどんな思いだったのでしょう。
自殺をする予定だった、もしくは、自分も殺されると察していたのでしょうか。
<ボイスレコーダー>
重要な証拠となるボイスレコーダーは、事故から約10年後まで一切公開されませんでした。
約10年後に『公開する予定ではなかった・遺族などに対する公開を予定していたもの』が流出という形で公開され、それも一部であり、何か所も編集され、大事な部分はカットされていました。
また、日本航空経営陣から藤田日出男(独自の事故調査をした人物であり、当時は日本航空のパイロット)に提供されたテープは、機長の遺族のみに聞かせるように強く指示されていました。
事故から15年後の1999年11月に、運輸省は非公開状態を維持したボイスレコーダーの音声録音資料の他、事故記録の資料など全てを廃棄処分しています。
遺族が保存を強く願い、再調査を求めていたのにもかかわらず、データの保存期間が過ぎたという理由だけで、1.6トンもの事故調査関連資料全てを廃棄処分したのです。
2001年から施行される情報公開法を恐れてのことでしょう。
運輸省は「処分していない」と嘘をついていましたが、後に、廃棄処分にしていたことを正式に認めました。
「原資料はマイクロフィルム化して現在も保存してあり問題はない。ただし、今後も調査資料は公開の対象とはしない」そうです。
しかし、ボイスレコーダーのコピーを録っていた人物がいました。その人物は2000年7月に、コピーを放送局に公開しました。
<異常発生後の写真>
異常発生後の機内後部を撮影していた写真は、警察から遺族に返還されて新聞でも報道されましたが、何故か事故調はその存在を認めず、事故調査報告書でも一切触れませんでした。
この写真は、酸素マスクが落下していることから、最初の異常後、調査書で言うところの圧力隔壁の断裂後に撮られたものと認められます。
機内が非常に落ち着いている様子が写っています。『機体後部の圧力隔壁の断裂により機体の内外で圧力差が発生、機内に風速200m/hの気流が生じ、その猛烈な気流が隔壁を突き抜け、垂直尾翼を破壊した』はずなのにです。
<以下、急減圧について転載>
<経営は“将来的には残骸を破棄する考え”を表明>
機長組合は123便事故に関して、社内事故調査報告書の開示と調査の再開 、全ての残骸の保存 、残骸やCVR・DFDRの組合への開示を要求しました。
そして、返ってきたのは『事故機の残骸を将来的には破棄する考えである』との回答でした。
123便事故の原因究明に関しては、とても乗員の理解・納得が得られるような説明がなされていません。
そして、返ってきたのは『事故機の残骸を将来的には破棄する考えである』との回答でした。
123便事故の原因究明に関しては、とても乗員の理解・納得が得られるような説明がなされていません。
また、この事故に対する社会的な関心は高く、事故調の報告書に対する疑問や再調査を求める声が数多く寄せられています。
こうした中で、事故原因究明の道を自ら葬り去るような『残骸破棄』の意志を回答文に新たに盛り込むとは…
以下、2004年春闘回答
JA8119号機事故については、2002年8月に社内事故調査報告書をまとめ、航空・鉄道事故調査委員会の報告書の内容を肯定しうるものとの結論を得たため、再度調査を要請する考えはありません。
なお、社内事故調査報告書の概要については、すでにご説明しておりますが、貴組合からの質問にはお答えする考えであります。
また、保存されている機体破片やCVR等のローデータについて、貴組合に公開する考えはありません。
なお、圧力隔壁・CVR・DFDRについては、今後とも教育目的で保存し、その他の機体破片については、将来的には破棄する考えであります。
<急減圧が否定されると全てが崩壊する隔壁破壊説>
123便事故について、運輸省航空事故調査委員会(当時)は「後部圧力隔壁が飛行中に破壊し、客室内の空気が大量に瞬時に垂直尾翼内に流れ込み垂直尾翼を破壊した」と事故原因を推定し、しかも垂直尾翼を破壊するほどの空気流によって、機内では30万ft/minにも及ぶ急減圧が発生したと推定しています。
そして、日本航空もこの事故調の結論を是認しています。
機長組合は、123便事故調査に関してBDZ(総合安全推進室)との交渉を進めますが、この中で『急減圧』の存在が否定されると事故調査報告書の推定が崩壊することを、会社も認めています。
●急減圧発生時に真っ先に乗員がしなければならない『酸素マスクの装着』を3人の乗員いずれもが行っていない
●生存者が「ツーンと耳が詰まった程度」の減圧でしかなかったと証言している
●異変が起きた後にも「突風により物が散乱した様子が一切見られない機内の状況」を撮影した写真
このように、事故調が推定するような急減圧の存在”を否定する状況証拠が数多く見られます。
●生存者が「ツーンと耳が詰まった程度」の減圧でしかなかったと証言している
●異変が起きた後にも「突風により物が散乱した様子が一切見られない機内の状況」を撮影した写真
このように、事故調が推定するような急減圧の存在”を否定する状況証拠が数多く見られます。
(組合注:約10万ft/minの急減圧であったタイ国際航空機事故で、多くの乗客は“難聴”を訴えている。また航空医学の通説では、事故調の推定するような急減圧では鼓膜が破れてしまう。)
この大きな矛盾に関して、BDZは「123便では、客室内で急減圧特有の現象が存在したとの証拠は無い」と認めています。
しかしその一方で、「これは空気の流れは主として天井裏部分を通ったためと考えられる」との理屈で説明しようとしましたが、運航技術部長から「空気の流れは隙間があればどこへでも流れる。前回の(BDZによる)説明のように『多く(の空気)が天井裏を流れた』とは思わない」と技術的にこれが否定されるなど、この最大の矛盾に対して説明不能に陥っています。
これは、『急減圧による隔壁破壊説』に事故原因を結論付けることには無理があり、何らかの他の要因によって垂直尾翼が破壊されたものと考えることの方が極めて合理的といえます。
<以下、急減圧について転載>
まず、疑われているのが、報告書内で起こったと推定されている「急減圧」の存在だ。
航空機には、地上と同じ気圧を保つように圧力が加えられる。これを「与圧」と呼ぶ。そして、機内と外部との圧力を分ける壁が「圧力隔壁」だ。
それが壊れた部分から客室内の空気が流出し、機体尾部と垂直尾翼、さらに4つの油圧パイプが壊れて操縦機能が喪失。また、空気の流出により、機内には「急減圧」が発生したと報告書では推定されている。
ところが、この部分が生存者の証言と矛盾しているのだ。
証言によれば、急減圧発生時に起こるといわれる現象が、実際には起きなかったという。
たとえば、急減圧後の機内は、気温がマイナス40度まで下がり、空気が膨張する。それが風になって機外に流れ出す。このとき、大きな風の音がする。
ところが生存者は、異常発生後の機内温度の低下や、強風が吹いたことも否定した。
そればかりか、ボイスレコーダーには、機長らの急減圧に関するやり取りが記録されていない。
これらの事実を受け、今日では、遺族や航空関係者、ジャーナリストの間には「急減圧はなかった」という見方が強まっている。
日航内部にも、「急減圧はなかった」という説を支持する団体もある。
独自に真実の事故原因を追究すべく活動している日航乗員組合連絡協議会が、急減圧説を否定するリポートを発表している。
ならば、事故調は再調査をすればいいのだが、そうした動きは皆無だ。
遺族たちは再三、事故原因の再調査を求めているのだが、それが叶う様子はない。
いや、そればかりではない。
なんと99年11月には、この事故に関する全資料が廃棄処分されてしまったのだ。
まるで何か都合の悪いことを隠すかのように。
<秘密特定保護法>
日本政府は、2015年にこの事件に関する外交文書が一般公開されるのに合わせて、この事故の真相が明らかにならないように、被告本人や遺族ら関係者(田布施村閨閥)は秘密特定保護法を制定しました。