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言いたい放題な生息記録

タグ:軍人

宝冠釈迦如来を御本尊とする宝成寺は、江戸時代初期に同地域を治めていた栗原藩・成瀬氏の菩提寺として創建された、曹洞宗派の寺院だそうです。

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成瀬正成の次男之成、之成に殉死した3人の家臣、夭折した之虎、第7代犬山城主成瀬正寿などがあり、市内唯一の大名家の墓所とのこと。

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苔生した石段を上っていくと…

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大きな岩がいくつも転がる中、鐘つき台がありました。

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今回は写真中心でお送りいたします。

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軍人さんのお墓がありました!

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また軍人さんのお墓がありました!

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ここからの写真は、成瀬家墓所。

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ラジカセから軍歌を流し、軍服や白い布の服を着て、足踏み行進を続ける傷痍軍人たち
片腕の無い人ロボットのような古い義足を付けた人、アコーディオンを演奏している人、そして、傍らには募金箱。

子供の頃、上野の路上で必ずと言っても良いほど見かけた光景である。


一緒に住んでいた父方の祖父も、傷痍軍人だった。 
酸素ボンベに繋がれ、ほとんど寝たきりだったが、時々戦時中の話を聞かせてくれた。 
祖父の脚には鉄砲の弾が入ったままになっており、右耳の付け根裏にはビー玉が入るほどの穴があいていた。
この穴は、戦時中に祖父自らが鑿でえぐったものである。中耳炎の痛みで、戦闘に集中できないため、洞穴の中で自ら患部をえぐり取ったのだ。
まだ幼かった私は、その穴に丸めたガムの包み紙を入れたりしていた。ごめんよ、じいちゃん。

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写真:若い頃の祖父
 
 
一方、母方の祖父は近衛兵だった。
頭脳明晰で容姿端麗でないと、天皇陛下をお守りする近衛兵にはなれない。
その高い鼻や身長は、残念ながら私には遺伝しなかった。 

まあ、とにかく、私は戦争の体験者である祖父母から様々な話を聞いて育ったわけで、戦争は決して教科書の中の出来事ではなかった。
しかし、どれも遥か遠い昔の話だ。まさか現代に、生々しい『兵隊さん』の姿を見るとは思わなかった。
すっかり平和となった日本の風景の中、いかにもな服装で行進する傷痍軍人たちは、かなり異様に映った。

正直、少し恐ろしかった。過去からの亡霊を見ているような、独特の恐怖だ。
母は、「あの人たちは国からちゃんとお金を貰ってるのに、同情を引いて募金させようとしてるだけ。充分貰ってるんだから、募金なんかしなくていい」と言っていた。「あれは兵隊のフリをしている偽物だ」と言う人もいた。

だが、彼らを無視して通りすぎるのは、気持ちの良いものではなかった。 
なんとも言えぬ罪悪感
 

今でも疑問だ。私が上野で見た彼らは偽物だったのだろうか?
そこで、調べてみると…


『傷痍軍人などを救済するために、身体障害者福祉法が施行されたのは1950年のこと。以降、日本国籍の傷痍軍人は生活補助が受けられるようになった。在日朝鮮人、韓国人、台湾人などの旧日本軍兵士にはなぜ適用されないのかというと、1965年の日韓基本条約で、韓国が経済援助と引き換えに個人補償の請求権を放棄したからである』


ということは、私が1980年代~1990年代に見た彼らは在日朝鮮人、韓国人、台湾人の傷痍軍人だったのだろうか?
だが、日本人も療養所で暮らす傍ら、縁日などの際には白い診療服のまま路上に出たりしていたという。
なんにせよ、何の援助も無い頃や、様々な理由で援助を受けられなかった者は、カンパに頼らざるをえなかったのだろう。
そして、中には偽者もいたのだろう。


最近全く見かけなくなったのは、年齢的に路上に出られなくなった人や亡くなっている人が多いからだ。そうやって忘れ去られていくのは、なんだかさみしいものだ。

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